
怒れる同僚
「あ~本当に許せない」
「ちょっと落ち着いてよ」
「落ち着いてなんていられないじゃない、泥棒されたんだよ!」
Barの扉を開けかけながら、常連の経理職のAさんが同僚を連れて店にやってきた。
「いらっしゃいませ」
「マスター、今日は強めのお酒を二人分お願いします!」
「何かあったんですか」
「この同僚の怒りが収まらなくて仕方がないので連れて来たんです」
「そうですか。まあお座りください」
希望どおりの少し強めのカクテルを2人に差し出すと、Aさんの同僚は一気に半分ほど飲み干してしまった。
「あー、冷たくておいしいっ!」
「ねえちょっとやめてよ。まだ乾杯もしていないし、カクテルはそんな下品に飲むもんじゃないんだよ。連れてきた私が恥をかくじゃない」
「あ、ごめんごめん。いらいらしちゃってたからさ。それにしても本当にこれ美味しいよ!じゃあ改めてカンパーイ」
「すみませんマスター、こんな騒がしい子で。紹介しますね。私の同僚で、企画部で働いているBさんです」
Bさんはカクテルをすっかり気に入ってしまったようだ。
「このカクテルのブルーの色を見ていたら心が癒されてきた。カクテルってすごいね。メンタルヘルスドリンクだよ」
「そうだよ。マスターはね、あなたが怒り狂っていたからそれを見越して、心が落ち着くようなカクテルを作ってくれたんだよ、ねえマスター」
「ええ、まあ」
Bさんはそれを聞いてようやく我に返って気恥ずかしそうにし、落ち着きを取り戻して改めて話し出した。
「すみませんお騒がせしまって。ここのお店のマスターは話がわかる人だからって連れてきてもらいました。でもこのカクテルを飲んだだけでそれがすぐわかります。プロのお仕事ですね」
「お褒め頂いてありがとうございます。ところで、さきほど『泥棒』とかなんとかおっしゃっているのが聞こえましたが、何かあったんですか。もしよろしければ伺いますよ」
売上請求書のクラウド化が思いもしないものまで明らかに…
じゃあまず私が、とAさんが話し出した。
「うちの会社、以前までは売上請求書をExcelで作っていたんです」
「そうですか。各現場担当者が作るんですか、それとも経理担当者が作るんですか?」
「各現場担当者が、自分の案件の売上請求書をExcelで作成、印刷して上長に提出して、承認、捺印してもらったものが経理に回覧されてきて、それを経理から郵送していました。それと同時に売上計上の入力も行っていました。それを効率化するために、先日、クラウドのソフトウェアを導入して、売上請求書の発行や管理がもっと簡単にできるようになったんです」
「それはよかったですね」
「ええ。経理の私はそのおかげでとても楽になりました。まず紙じゃなくなったので、自分が売上請求書を紛失するリスクもないですし、仕訳入力も手作業じゃなくてデータ連動でそのまま会計ソフトに流し込めるので、入力ミスのリスクもなくなりました。それに、紙のファイリングの作業もなくなり、画面上で過去の売上請求書を検索すればすぐ閲覧もできるのでとても助かっています」
それをじっと聞いていたBさんが口を開いた。
「経理はいいよね。経理は」
「あなただってあのことがなかったら便利でしょ」
「まあね、で、マスター、問題はここからなんです。聞いていただけますか」
「なんでしょう」
選手交代でBさんが話し始めた。
「私は企画部なんですけど、Aさんが言ったみたいに、先日から売上請求書のソフトウェアが導入されて、過去3年分の売上請求書の申請データも経理のAさんがさかのぼって入力してくれたんです。私たちがそれらを複写すればすぐ請求書が作れるし、過去にどのような取引があったのか、他の担当者の分も検索して見ることができますし」
「そうですか。それまでは、他の担当者がどのような案件をやっているのかはわからなかったんですか?」
「もちろん定例の企画会議でお互いに報告はしますので、『今C社の春のキャンペーンで動いています』というような話は聞きます。けど正直、自分の仕事が手一杯で、誰がいくら売り上げていて、どんな内容のキャンペーンをやっているか、皆忙しくてきちんと把握できていなかったんです。本当はみんなでシェアするべきなんですけど」
「まあ、現場あるあるですよね。Aさんとも以前話しましたけど、経理などのバックヤードから見ていると、現場社員同士って常に情報共有していそうなイメージがあります。けど、実際はそれぞれの仕事が忙しいですから、むしろ経理社員のほうが一人一人の現場社員の情報に詳しかったりすることがありますよね。それで、どうされたんですか?」
「それで、Aさんから『過去3年分の売上請求書も反映しましたので、ご自身の担当分を一応見ておいてください。そして、企画部門の売上請求書は他の担当の社員の方のものも閲覧できる権限設定にしてありますので、情報共有にお使いください』と企画部全員に通知がありました。自分の担当のものをチェックしたあとに、他の人はどんな案件をやっていたのかなあと思って、順番に検索してチェックしていたんです。そうしたら…Cという同僚が、私が考えた企画案をいくつもそのまま盗んで、他の会社に提案して仕事をとっていたんです」
「どうしてわかったんですか」
「売上請求書って、案件のタイトルだけじゃなくて、売上明細って書くじゃないですか。その明細を見たら、私がこれまで考えた企画とほとんど同じ内容の明細だったんです。それも何件もやっていて、私が新規でこれから営業をかけたいなと思っていた会社にも私の企画を盗んだもので仕事をとってきていて…。それで腹が立ってCにどういうことかって詰め寄ったんです」
「そうしたら?」
「Cは『え?それって何でダメなんですか?法的には別に問題ないですよね』って!! 」
Aさんは感情的になったBさんを「まあまあ」となだめながら、アイコンタクトでマスターに「すみません」と伝えたが、マスターは「大丈夫ですよ」とAさんにアイコンタクトして、Bさんに語りかけた。
オリジナルの企画は、その人の売上の源泉
「そうだったんですね。それはお怒りになるのはわかります。法的に問題がないとか、そういうことじゃないですよね。Bさん独自で考えた企画なら、道義的にまず『その企画、私にも使わせてもらえないですか』ってCさんがBさんに一言確認するのが礼儀ですよね。それを無断で勝手に『あれいいな、じゃあ自分も真似て少し変えて使っちゃおう』ってやるのは非常識ですよね」
「そう!そうなんです。法律とかそういうことじゃないんですよ。敬意の問題ですよね。さすがマスター、よくわかってくださる!」
BさんをなだめていたAさんが口を開いた。
「だから言ったでしょう、マスターはわかってくれる人だって。マスター、私も良かれと思ってしたことが、まさかこんな騒動になるなんて思わなくて。だって、BさんとCさんが担当している仕事の売上明細の内容があまりにも似ているし、もう何年も何回も同じようなことがあったので、私はてっきりBさんとCさんはお互いに情報を共有しているものだと思っていて。それですぐBさんが企画部長に抗議をしたら、部長も私と同じで、『普段二人が仲良く話しているからこのことは二人で共有されているものだと思っていた』って」
Bさんは、今度は涙目になりながら口を開いた。
「部長もAさんも『そういう人の企画を盗む“偽物”は長続きしないから』って言ってくれるんですけど、なんか悔しくて…」
マスターは穏やかな表情でBさんに語り始めた。
「よくありますよね、そういうこと。だからその悔しさをそのまま抱えながら、これからも仕事をされたらいいと思いますよ。Cさんの言うとおり、いわゆる『企画泥棒』というのは法的には問題ないことがほとんどですけど、部長やAさんの言う通り、Cさんのような人は結局オリジナルのスキルが積み上がりませんから、長く活躍はできないでしょう。今度Cさんにお会いしたら『Cさん、私の企画、真似してくれてありがとう。人に真似されるだけ良い企画だったんだって自信がついたよ。でも、次回からは真似する前に一言言ってね』って言ってさしあげたらいかがですか」
Bさんはようやく落ち着きを取り戻して穏やかな表情になった。
「言えるタイミングがあればいいんですけどね。昨日から欠勤していて、多分居づらくなってやめるんじゃないですか。あ、それにAさんも、あなたのおかげで今回のことがわかったんだから感謝してるんだよ。ありがとね」
マスターもうなずきながらAさんに語りかけた。
「そうですよ。もしソフトウェアを導入していなかったら、本来Bさんが挙げられるべき売上をCさんに盗まれ続けていたところでしたから」
「そっか。会社的には売上が変わらなくてもBさんにとっては大損害ですよね」
「そうだよ。あなたのおかげ!ごめんね、さっきは取り乱してしまって」
「ありがとう。私は経理担当者として、純粋にもっと皆が便利になればいいなと思ってソフトウェアを導入したり、過去データを反映させたりしただけだったんです。でも現場の人達はそれを見て、今まで気づけなかったことに改めて気付くこともあるんだなと今回わかったので、これからも業務改善していきたいと思います」
その後、Cさんは結局退職しました。その件をきっかけに企画部では、出された企画が、他の社員や外注先の企画を自分のものとして、無断で勝手に転用していないかチェックをする内部統制のフローを設けた。
そして、各自が自分の仕事だけのことを考えるのではなく、クラウドのソフトウェアを活用して、お互いの仕事の進捗や企画内容などに関しても、積極的に情報を得たり意見交換をしたりする時間を作るようになったそうだ。
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