「私、俳優の〇〇〇〇は長年お世話になった事務所を退所し、新たに個人事務所を設立し、独立することにいたしました。つきましては…」
ここ最近、芸能事務所に所属していた俳優やタレントさんたちが、このように独立をすることが増えました。皆さんもこのようなニュースを目にすることがあるのではないでしょうか。
経理目線から見ると、「経理処理とか大丈夫なのかな」と思う人も多いことでしょう。実際に、大変なことが起こることもあります。
独立
「マスター、相談に乗ってくれてありがとう。じゃあまたね」
「ありがとうございました。おやすみなさい」
その客が出て行ったあと、少し離れて座っていた常連たちが駆け寄ってきた。
「ねえねえマスター、今のって俳優のSさんじゃない?」
「そうですよ」
「やっぱり!なんでSさんがこんな店に一人で来てるの?」
「こんな店、とはちょっと口が過ぎませんか」
「ごめんなさい!でも、Sさんっていったら私たちの学生時代の憧れだったから。マスター、Sさんと知り合いなの?」
カウンターにいた別の客が割って入った。
「知らないの?マスターは昔、芸能関係の会社にいたから顔が広いんだよ。ねえマスター」
「ええ、まあ…」
「ふーん。で、Sさんは何の相談だったんですか?確かSさんって、去年大手の芸能事務所を独立したってニュースに出てましたよね。それと何か関係があるんですか」
「お客様との会話をペラペラ喋っていたらこの商売はやっていけないですよ。さあ、もう一杯いかがですか」
さあさあ、と常連たちを席に戻しながら、Sさんとの会話を思い出していた。
Sさんは、一般学生が応募するファッション誌のコンテストで特別賞を受賞したのを機に芸能事務所にスカウトされ、その後モデルや俳優として活躍していた。順風満帆にキャリアを伸ばしていたが、30代に入り、それまで自分に求められてきた「若々しい元気なキャラクター」の限界を感じていた。
事務所からは「まだまだその路線でニーズがあるんだから」と説得されたが、「一度自分のやりたいようにやらせて欲しい」と事務所の社長に直談判をして、マネージャーと二人で昨年個人事務所を立ち上げて独立をした。ただし、3年で結果が出なかったら、また事務所に戻ってきなさい、という条件付きだった。
そんなSさんはあることで悩みがあり、顧問税理士の先生に相談したところ、行きつけの経理Barというところがあるから、そこのマスターに相談してみたら?と言われて訪ねてきたのだった。
マネージャーが横領?
「なるほど。随分と恵まれた形での独立ですね。昔なら事務所と喧嘩別れして、独立してからしばらくは仕事がなくて、というのが一般的でしたから」
「ええ。事務所の社長も『自分も脱サラして起業したから、君が独立して自分の力だけでやってみたいという気持ちもわかるよ』と言ってくださいまして。でも『経営は思っているほど簡単じゃないし、信頼している人から裏切られることも当たり前にある世界だから』と、これまで私についてくれていたマネージャーを出向扱いで私の会社で働いてもいいと許可してもらいました」
「よくテレビでもWeb動画でもSさんを拝見していますよ。順調そのものだと思いますけど、この私に何のご相談ですか」
「実はマスター、そのマネージャーについてなんですが」
「マネージャーさんがどうかしたんですか」
「ひょっとしたら横領しているんじゃないかと思って…」
「何か根拠でも?」
「先日、独立して初めての決算で、税理士事務所に一人で伺って、先生から決算報告をしていただいたんです」
「ええ」
「それで売上金額を見て、その内訳を知りたいと思って明細を見たんですが、去年やったはずの仕事の売上が入っていないものが何件もあったんです」
「ご自分で覚えていらっしゃったんですか」
「ええ。自分も一応社長になったので、自分のスケジュールは自分で書き留めるようにしているので」
「なるほど」
「それで税理士の先生にもそのことを言ったんですが、先生は『マネージャーさんから頂いた請求書や領収書の情報がすべてだから、受発注に関しては税理士ではわからない』と言われてしまいまして」
「それは先生のおっしゃる通りですね」
「ええ。だからマネージャーにそのことを問いただそうと思ったんですけど、長年一緒にやってきているし、自分には今マネージャー以外に頼れる人はいないし、かと言ってこのままではいけないし、どうしたらいいのかと思って。それでここに来ました」
「なるほど、そういうことでしたか」
「前の事務所の社長が言った通りですね。経営って簡単じゃないし、信頼している人がそうじゃないかもしれないと思うと、仕事中もそのことばかりが気になって集中できなくて」
「わかりました。人を疑うのは最後にして、まずは私がこれから言うことをマネージャーさんに伝えて確認してもらえますか」
「はい、わかりました」
受注管理と入金管理
後日、Sさんはマネージャーと前事務所の社長と3人で経理Barにやってきた。晴れ晴れとした表情である。
「マスター、先日はありがとうございました」
「いえいえ。そのお顔を拝見すると、無事お悩みは解決したようですね」
「はい」
Sさんは経理Barで相談した翌日、自分のスケジュール表と売上明細の帳簿とを突き合わせて、スケジュール表にはあって売上明細にはない仕事の案件をリストアップし、マネージャーに見せた。
「ねえ、聞いていい?自分のスケジュール表にあって、売上明細にはなかった案件がこれだけあるんだけど、これらはいつ入金するかわかる?」
すると、マネージャーの表情がバツの悪そうな顔に変わっていった。
「すみません!言わなきゃいけないと思ったんですけど言い出せなくて…」
「怒らないから、何があったのか言って」
マネージャーの話によると、Sさんの会社の売上は、Sさん側から売上請求書を発行して入金される通常のパターンのものと、売上請求書を発行しなくても、振込口座をメールなどで先方に連絡をしておけば、後日、支払通知書が送られてきて指定された日に自動的に入金されるというパターンがあった。
以前の事務所であれば、それらのお金のやりとりはすべて経理担当者が代わりに管理や手配をしてくれていた。しかし、個人事務所では事務員がいないので、マネージャーがそれもすべてやらなければいけなくなり、どの案件が請求書の発行が必要でどの案件が不要なのか管理しきれなくなってしまったとのことだった。
そして先方から「早く請求書を当社に送ってください」と連絡があったものには対応をしたが、「こちらが請求し忘れているものがあるかもしれない」と言った。
「じゃあ、この自分がチェックした案件がその請求し忘れている案件ということだね」
「すみませんでした」
「いいんだよ。いや、本当は良くないよ。ただ、そういうことだったのなら良かった」
それからSさんは「社長として」自分で未請求だった会社に1件ずつ連絡を入れてお詫びをし、請求書を発行させてもらったそうだ。
それぞれの役割
そのような顛末を改めてSさんが話すと
「社長業って大変だろう?」
と前事務所の社長がニヤニヤしながら言った。
「はい、前の事務所では社長とマネージャーと、仕事を取ってきてくれる営業に関しては認識していましたけど、お金の管理をしてくれている経理の人たちとか、自分が普段会わない、いろいろな人が自分のために働いてくれていたから自分も集中して仕事ができていたんだと反省しました」
「それがわかっただけでもいいんじゃない?社長は社員がどんな気持ちで仕事をしているかを気にかけなければいけないし、現場は事務処理をしている立場の人がどんな気持ちで仕事をしているか気にかけなければいけないし、事務処理をしている人は、現場が多忙で何か忘れている作業がないか気にかけてあげなければいけないし、お互いに気をかけ合わないと、仕事というものは成立しないからね。ねえマスター」
「ええ。これでSさんも、社長さんの役とか、組織の板挟みに悩むビジネスパーソンの役とか、新たなイメージの役がリアリティーを持って演じられるんじゃないですか」
「そうですね。これからもこちらに時々伺うのでここに来る常連の方たちもそのうち紹介してください。もっと会社員の世界を聞いて勉強したいです」
「そのうちと言わず、もう待機していますので、よかったらあちらへどうぞ」
そうマスターが目線を送ると、テーブル席で例の常連たちが、「いらっしゃいませ」と言わんばかりにSさんをこっちこっちと手招きをしていた。
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