
接待の場で行われる経費の不正
「おつかれさまー。何でもいいからノンアルコールのカクテルちょうだい!」。そう言うと、彼女はカウンターに腰を下ろした。近くで高級な店を経営しているママだ。うちのバーは始発まで営業しているので、深夜を過ぎると近隣の同業者のたまり場にもなっている。
自分の店を開く時にママの店にも挨拶に行った。ママは親切な人で、この界隈のことをいろいろと教えてくれた。私も自分の顧客にママの店も紹介しているので、ママも自分の店が終わったら寄ってくれることが多くなった。
ママから教えてもらったたくさんのことの一つひとつが勉強になっていて、会社員が行う接待の場で行う不正の手口もその一つである。そのなかでも印象に残っているエピソードを今日はご紹介しましょう。
有名企業・高学歴の社員が行ってきた古典的な不正
ママの店は、よく大手企業の接待場として使われている。ある日、A社とB社の接待に使われ、会計の段になった時にそれぞれの社員から同じ金額の領収書を2枚発行してくれと頼まれた。
言われたとおりその時の会計金額10万円をA社の分で5万円、B社の分で5万円作成して渡したところ「ママ、冗談もいい加減にしてよ。10万円の領収書を2枚ちょうだいって言ってるの」と言われたそうだ。
最初は「え?20万円になっちゃうじゃない?」と、と思ったそうだが、他のテーブルの接待もあったので、その場は言われるまま書き直して10万円の領収書を2枚作成して渡し、帰ってもらった。
そうしたことが何回か続いたある日、常連客のC社長が、カウンターで一人飲んでいた。そしてたまたま近くで会計をしていたA社とB社の担当者とママとの領収書のやり取りを聞いてしまったそうだ。A社とB社の人間が帰った後にC社長が、「ママ、ちょっと」と声をかけた。
「社長すみません、大騒ぎでしたでしょう」
「A社とB社の人達でしょ。会計の時にママがそう言ってるのが聞こえてきたから」
「そうなんです。いつも会社の接待で使っていただいているので、多少騒いでも仕方ないかなと思っているんですけど」
「それはいいんだけどね、ママ、さっきたまたま見てたんだけど、領収書2枚渡してたよね?」
「ええ」
「それってちゃんと折半した金額を渡してるの?」
「いえ、最初は私もそうやって出そうとしたんですけど満額で2枚ちょうだいって言われて、いつもそうしてます」
「ママ、それ、不正に加担しているよ」
「どういうことですか?」
「会計金額が10万円だったら、普通はA社が全額出すか、B社が全額出すか、もしくはA社とB社折半で出すでしょう」
「ええ」
「もしママがA社とB社それぞれに10万円分の領収書、つまり20万円分の領収書を出したらどうなると思う?本当はA社のおごりなのに、B社の担当者が1円も払っていなくて「自分で全額払いました」とママの書いた領収書を経費申請したら、そのまま10万円、B社の社員が会社から横領できちゃうんだよ」
「えっ、彼らはいつも見ていると実際のお金は折半しているようですが、そうなると…」
「会計が10万円だったら、彼らは5万円ずつしか出していないけれど、A社とB社でそれぞれ10万円の経費申請を出して、差額の5万ずつをA社の社員とB社の社員、それぞれ毎回懐に入れているということだね」
「社長、私も最初はちゃんと折半をした金額を書いたんですよ。そしたら彼らに怒られて、私も変だなとはと思いつつ、でもA社とB社って日本でも有名な会社だから、その有名な学校を出た、有名な企業の頭のいい社員の人達がそう言うんだから、私の方が何か間違っているのかなと」
「ママ、確かにA社とB社は企業イメージが良いことで有名だし、社員も高学歴の人が多いのかもしれないけど、不正って賢くないと逆にできないし、イメージがいいと言われる会社がやるから見つかりにくいんだよ。だからそういう人や会社こそ、逆に一番気を付けて接しなければ自分も不正に巻き込まれてしまう恐れがあるんだよ。こういうことはもうやめたほうがいいよ」
「わかりました。社長。その代わり、一つお願いがあります」
不正との決別
しばらく過ぎたある日、またA社とB社が来店した。そして会計の段になってママが意を決し、正しい金額の領収書をそれぞれに渡した。すると「ママ、また金額間違ってるよ。酔っちゃったの?ちゃんと計算できる?」と、小馬鹿にして笑った。
するとそばにいたC社長がすっと立ち上がってママの横に立った。ママは自分だけでは恫喝されるかもしれないから、C社長に同席をお願いしておいたのだ。
「君たち、A社とB社の人達だよね。こうやって毎回不正してるんだね」
「なんだこのじじい、関係ないだろ」
「関係ないけど、A社とB社の役員、何人か大学のOB会で顔見知りだから明日連絡しておくよ。社員が不正をして私の大好きな店に迷惑をかけてますよって。君たちの名前はママに渡してある名刺を見ればいいかな」
その途端、彼らの顔は真っ青になり、それだけは勘弁してください、今首になったら家庭もあるし困ります、と都合の良い言い訳を並べ立て、その場でひざまずき、ママに謝罪をした。
それ以来、A社とB社の人間はママの店に顔を出さなくなり、売上はがくんと減ったが、その分C社長がことあるごとに自分の知り合いを連れてきてくれて、なんとか苦境を乗り切ったそうだ。
ママは飲み干したグラスを片手に続けた。
「あの時は本当に大変だったけど、いい勉強になったわよ。正直、A社とB社の売上がなくなるのが痛かったのよ。だからC社長に注意されたときも、別に領収書の不正くらいいいのにって思ってたの。そしたらC社長が、『金まわりのいい客より質のいいお客さんを大切にしなさい。質のいい客は絶対にママに手を汚させるようなことはしないはずだよ』って始発まで説教されて」。
「いい社長さんですね」
「本当に。その後、世の中が『働き方改革』だって言い始めて、若い人達も夜の接待を嫌がるようになって大企業の接待も減ったでしょう。そして今回のコロナ。あのままA社とB社だけに依存していたらうちの店、完全に潰れていたわよ。C社長が紹介してくれたお客さんは皆いい人たちでね。コロナ禍でも「絶対にママの店潰さないからね!」って毎日励ましの連絡をしてくれたり、ランチのテイクアウト弁当を始めようよと一緒に手伝ってくれたの。本当に一人ではとてもできなかったから、つらいことでは一度も泣いたことはないけど、あの時ばかりは嬉しくてつい涙が出ちゃったわよ。今はもうそんな領収書を不正にくれだなんてお客は一人もいないからありがたいしね」。
デジタル化で1枚の本物の領収書から古典的な不正ができてしまうことも
それを聞いた私は、いい話だなと思いながらも、ママに言わずにはいられなかった。
「よかったですね。でもそんないい話に水を差すようで悪いんですけど、今はもうママに不正の領収書を作ってもらわなくても、正しい領収書一つで不正ができてしまうんですよ」
「え?どういうこと?」
「今は、領収書は紙じゃなくてスマートフォンなどでスキャンしてデータ化して申請する会社も多いんです。その場合は、原本の領収書も一緒に提出しなければならない会社もありますが、そのまま原本は破棄してもいい会社もたくさんあるんです」
「へー、そういう時代なんだ。それで、どうやって不正するの?」
「ママが10万円の領収書を作成したら、その場でA社の社員とB社の社員、それぞれが自分のスマートフォンで10万円の領収書を撮影する。そして、「自分が全額自腹を切りましたので精算お願いします」とそれぞれ申請してしまえば、A社から10万円、B社からも10万円、それぞれ精算できてしまうんですよ」
「ああ。だから私も不正の領収書を作れと言われなくなっただけのことなんだ」
「おっしゃる通りです。デジタル化をして便利になることもありますが、反面、不正などはよりしやすくなるケースもあるのです。会社でいえば社長が『社員を信じているから何も不正の対策を打たない』ということではなく、C社長のように社員に不正を行わないモラルを啓蒙して欲しいとは個人的には思いますよ」
「そっか。会社も大変なんだね。でも、私の場合はお客さんのことはやっぱり信じたいわよね」
「ええ。会社の社長も同じだと思います。社員のことを信じたいでしょうけどね。難しい問題ですね」
ママとそのような会話をカウンター越しにしながら、夜は更けていった。
※この物語はフィクションです
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